ワケのわからなさが心地よい

旅行の話と、その場所にまつわる本や映画の感想など、雑談をつらつらと

ホロコーストを指導したのは、モンスターだったのか、それとも「凡庸な」一人の男だったのか。<イスラエル「アイヒマン・ショー」>

今日は映画。続けてイスラエル関係。

「アイヒマン・ショー」

【あらすじ】

ナチスドイツでホロコーストの実行犯と呼ばれたアドルフ・アイヒマン。

大戦後、アルゼンチンで逃亡生活を送っていた彼が拘束されてイスラエルに引き渡され、ホロコーストの「責任」を追求する裁判がエルサレムで始まった。

その裁判を撮影したテレビマンの話。

 

突然ですが、イスラエルと日本の共通点って、なんでしょう?

それは、加害者としての顔と被害者としての顔、二つ持っていること。

パレスチナ側から見た時、イスラエスは圧倒的に、言い逃れできないくらいに、「加害者」だ。

だけど、イスラエルが「ユダヤ人の国」という性格を持っていて、そこへ行き着くまで、彼らは「被害者」でもあった。

この映画を観ると、ユダヤ人にとってイスラエルは「悲願の国」だということが、痛切に伝わってくる。

劇中、主人公の一人、映画監督のフルヴィッツと、宿泊先のホテルでユダヤ人のおばさん(従業員?)との会話が印象的。

イスラエルを故郷と思うか?」と問うフルヴィッツに対し、彼女は

「ここでは自由に息ができる」と答える。

 

そう。

やっと、やっと手に入れた、ユダヤ人が自由に暮らせる居場所。

誰の目も気にせず、ユダヤ人であることを否定しなくても生きていられる。

 

だからといって、他人の住む家、生活、故郷や文化、人にとっての生きる権利

を奪ってもいいということにはならないんだけど。

そういう背景も、知らなきゃ問題は解決しないんだな、と。

ユダヤ人もパレスチナ人も、対話から始めなければ、きっと暴力では解決できないところまで来てしまっているのかもしれない。

相手を知って、自分も知ってもらう。

そんな単純なことができなくて、今もたくさんの人が傷ついている。

自爆テロの犯人は、最愛の妻。理解しがたい現実に、答えを求め、夫はパレスチナに足を踏み入れる。<イスラエル「テロル」>

「テロル」ヤスミナ・カドラ著
【あらすじ】主人公はイスラエルに住むアラブ系の医者。日常生活に、何の不満もなかった。与えられた地位、愛してくれる妻。手に入れた豪邸に、不自由のない生活。満たされた日々を愛する妻と送っていると思っていた。その均衡を破ったのは、「妻が自爆テロを起こした」という、突然の知らせ。妻がテロリスト?なぜ、どうして。到底理解が追いつかない現実で、対極にあると思っていた二つのつながりを探すために、主人公はパレスチナ自治区へ足を踏み入れる。

 

この本を読んだのは、今年の春にイスラエルパレスチナに行ったことがきっかけだった。
エルサレムに一週間の滞在中、バスを乗り継いで、チェックポイントを越えて、「壁の中」、パレスチナに通っていた。

その時、エルサレムで頻繁に起きていたパレスチナ人による「自爆テロ」。


自爆テロに関しては、イスラエルにいる時も、帰国してからも、「どうして」っていう疑問を抱かざるをえなくて、考え続けてもわからなくて、感覚的に理解の範疇を超えていた。
チベット仏僧の焼身自殺を描いた「ルンタ」ってドキュメンタリー映画を観たときと、同じ感覚。
信仰心ってのが絡んでくると、私みたいな宗教を持たない人間からすると、そもそもの始まりからして違うのかもしれない。
そんでも、だからってわかんないまま放置もしたくない。
理解するための最大限の努力はしたい。
そういう背景から、この本まで行き着いた。

エルサレムに滞在中の1日。行ったのは、ラマッラというパレスチナ自治区の「首都」的な性格を持つ、政治の中心地。アラファトの墓もある街。
そこのある一画のカフェに、コーヒーと水タバコを吸っているおじさんたちがいた。
日本人が物珍しいのか、目が合うと、やたらと「こっちに来い」と誘ってくる。
平日の真昼間だ。何してんだろうと、挨拶してみると、「コーヒーおごっちゃるからここ座れよ」って、空いてる椅子を指してニコニコしながら招き入れてくれた。
おじさんがなんかわらわら。
一人はヨーロッパに留学していたこともある知識人っぽい感じの人。
一人は「近所の飲み屋にいつもいるわ〜」みたいなおっちゃん。
もう一人はテレビ局で働いているとかいう、自称ジャーナリスト。
中東の人たちって、平日の昼間でもよくカフェなんかに集まってわいわいしているイメージ。イスラエルの前に行ったヨルダンもそんな感じだった。

どういう話の流れでそうなったのかはわからない。話題はエルサレムでナイフを持ってテロを起こそうとしたパレスチナ出身の少女が射殺されたっていう事件になった。
ちょうどその前日くらい前にニュースになっていた。
14歳くらいの女の子だったはず。
エルサレムに入って、旧市街の周りにやたらと警察官と銃を持った兵士がいたことにちょっとびびっていた。きっと全部テロ対策だったんだろう。

そのおじさんは、容疑者の少女が射殺されたことに憤っていた。
「ナイフを持っただけの少女を殺す必要があったのか?
ナイフだけでどう拳銃に対抗できるというんだ。
殺す必要なんてなかった。
イスラエルは遺族に遺体すら返していない」
おじさんに聞いてみた。
自爆テロをする人の気持ちを理解できるか?」って。
おじさんは、迷いを見せずに「できる」。
ただただ激しい憎しみを、二つの国は積み重ねてきてしまったんだな、とその時感じた。


私が想像している以上に、パレスチナの人々が置かれている状況は、絶望的なのかもしれない。
パレスチナ自治区、ベツレヒムからヘブロンに向かうバスの中で、韓国語を勉強しているという女の子に会った。
最初、私を韓国人だと思ったらしくて、とても笑顔で話しかけてきてくれた。
日本人だと伝えたけど、それでもアジア人が珍しいのか、嬉しそうに色々なことを話してくれた。
家からベツレヒムの大学までバスで通っていること。
韓国料理が好きでたまに近くのお店に食べに行くこと。
結婚したばかりの夫がいて、心配性でいつもバス停まで迎えに来ること。
妊娠中で、もうすぐ女の子が生まれる予定だってこと。

夫はちょっと過保護だけど、それでも優しい。幸せだって言っていた。
夫がそこまで心配する理由。それは、銃を持ったイスラエル兵が通学ルートの途中で見張りをしているから。
「もしかしたら撃たれるかもしれない」
そんな不安を抱えながら、彼女も、夫も毎日を過ごしているのかもしれない。
平穏が突然途切れることがあると、パレスチナに住む人は、本能的に感じ取っているのかも。

街には一見活気があって、そこにいる人たちも普通の日常生活を送っているように見える。
とても親切な人が多くて、自宅まで招いて夕食をご馳走してくれた人もいる。
だけど、パレスチナイスラエルの問題は、外の人間が考えているより、もっとずっと、根深い。
人々の「権利」と「自由」が侵されている現状なんだ。

例えば、自由に海外へ行き来する権利。
例えば、好きな大学で好きなことを勉強する権利。

韓国が好きだと言っていた彼女は、それでも「韓国に行くのは難しい」と言う。
好きなことを諦めなくちゃいけない現実。
もう何年も何年も、そうやって生きてきて、
壁の外にも自由に出られない。
飼いならされた動物のように。

それを、「生きている」と言えるだろうか。

本当の意味で生きるために、心のままに生きるために、
パレスチナの人々には「自爆テロ」という手段しか、抗議の声を上げる手段が残されていないのかもしれない。

でもやっぱり、心の底から共感はできない。
それでも理解してみたくて、この本を読んでみたりした。
けど、主人公ですら、結局本当の意味で理解はできなかった。
理由を知るのは本人だけで、結局他人にはそれを納得のいく理由で上書きするしかないんだよな。


テロは、もちろんどんな状況でも許されない。
それでも、「テロを起こした人間はモンスターだ」と、決めつけて、理解不能のまま思考を停止する前に、
「どうして」を考えていける社会であってほしい。
憎しみを塗り重ねていく前に、ほんのすこしの想像力で、変われる世界だと思うから。